スゴ育児

息子育ての狂気の日々

意味の喪失と無重力の中で生きる

意味の喪失

ここのところ、哲学っぽい考えが止まらない。
昨年末祖父を亡くしなにかタガが外れたようだ。

私は、これまで、なんとかどうにか生きてきて、
これからも死ぬまで生きるつもりだけど、
意味や理由が分からなくなってきた。

なんとなく過去から現在まで時間が過ぎ、
なんにも考えないで生きてきたけど、
俺って何か意味があるんかな、と。

そりゃまぁ、家族もいるし、社会で働いてもいる。
下っ端でもないし成果がないわけでもない。
でも、永久ではない命と体はいつか失うわけだし、
社会に何かを遺しても、
社会だっていつ変わってなくなるかわからない。
人類だっていつかは恐竜みたいに滅ぶだろうし、
地球だっていつかはなくなる。

生きた証はいつか必ず消える。
アカシックレコード?があれば残る?
ちょっとよくわからない。

生き物は、食べて、代謝して、細胞は入れ替わり、
排泄して、いつかは地球に帰る。
水と炭素と鉄の循環の一部というわけだ。

十年前の自分と今の自分は同一と思ってるけど、
細胞のレベルで同一なものは何%あるだろうか。
生きていても循環の一部であることに違いはない。

この世に神も仏(救いという意味での)もなく、
ただただ、現象が起きているだけで、
それを脳みそが面白おかしく解釈して、
楽しんだり、苦しんだりしているというお話。

本当は義務も制約もない。
でもなんの保証もない。
私が「生きている」と呼ばれる現象の中にいるだけ。

二つの選択肢

多分、私に与えられた選択肢は二つだ。
一つは、絶望すること。
もう一つは、楽しむこと。

自分が生きていることに意味がないというのは、
なんとも恐ろしいことだ。
自分が何をしても、何もしなくても、
世界は何も変わらない。
ひどい無力感を覚えてしまう。

一方、これは、何をしてもいいということだ。
そりゃ、人間の社会で生きていくためには、
人間の社会のルールを守らなきゃならないが、
社会の外に出る覚悟があれば何も制約はない。
それこそ肉食動物に食われるかもしれんけど。

今、私は地球の引力という常識から解き放たれ、
自由を手に入れたわけだ。
幸運なことに、
三色の色を感じる錐体細胞のおかげで、
世界は彩に溢れているし、
蝸牛の中の有毛細胞のおかげで、
いろいろな音が聞こえる。
においも、味も触覚も、
こりゃ、生きていないと味わけない、
最高のエンターテイメントだ。

抽象化はほどほどに

しておいた方がいい。
生まれてから死ぬまでの間に、
宇宙のレベルで、
生きる意味なんて考える必要はない。
そんなものでお腹は膨れないし、楽しくもない。

抽象化は、あくまで人間社会のレベルでよい。
その方がちゃんとコンテンツを味わえる。

宇宙のレベルで生きる意味を考えることは、
RPGのゲーム中にトイレに行くことと同じだ。
RPGのゲームをしているときは主人公に成りきれ。
コントローラーを握っている生身の体から離れろ。
途中でトイレに行くなどもってのほかだ。